三十一 大地震
それはどこか熟し切った杏の匀に近いものだった。彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匀を感じ、炎天に腐った死骸の匀も存外悪くないと思ったりした。が、死骸の重なり重なった池の前に立って見ると、「酸鼻」という言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。ことに彼を動かしたのは十二,三歳の子供の死骸だった。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭折す」___こういう言葉なども思い出した。彼の姉や異母弟はいずれも家を焼かれていた。しかし彼の姉の夫は偽証罪を犯したために執行猶予中の体だった。・・・
「誰も彼も死んでしまえば善い」
彼は焼け跡に佇んだまま、しみじみこう思わずにはいられなかった。
芥川は関東大震災を予言していたと言うことです。母親の発狂から、芸術の極みにしか逃げ場のなくなった芥川という存在は、危うい天才を生み出します。
姉の夫は、火災保険を家の値段の倍掛けて自ら放火した嫌疑が掛けられていて、芥川は事後処理に疲れ精神を病みます。
三十四 色彩
三十歳の彼はいつの間にかある空き地を愛していた。そこにはただ苔が生えた上に煉瓦や瓦の欠片などが幾つも散らかっているだけだった。が、それは彼の目にはセザンヌの風景画と変わりはなかった。
彼はふと七,八年前の彼の情熱を思い出した。同時にまた彼の七,八年前には色彩を知らなかったのを発見した。
芥川の多才な文芸活動は二十五歳から三十五歳までの十年に集約され、ここで言う七,八年前とは、まだ彼が悪魔と契約する前の、人の幸せの上の青春時代。。。
その後、彼は母の遺伝子から逃れるために芸術の極み(色彩)に到達していったのでは。
『秋山図』という美しい作品があります。芥川は、名画そのものになっていったのかも。
三十六 倦怠
彼はある大学生と芒原の中を歩いていた。
「君たちはまだ生活欲を盛んに持っているだろうね?」
「ええ、___だってあなたでも・・・」
「ところが僕は持っていないんだよ。制作欲だけは持っているけれども」
それは彼の真情だった。彼は実際いつの間にか生活に興味を失っていた。
「制作欲もやっぱり生活欲でしょう」
彼は何とも答えなかった。芒原はいつか赤い穂の上にはっきりと噴火山を露わし出した。彼はこの噴火山に何か羨望に近いものを感じた。しかしそれは彼自身にもなぜということはわからなかった。・・・
『地獄変』という作品を読むと、制作欲だけで書いている作品じゃないかと感じてしまいます。
絵師が地獄絵を描くにあたって、我が目で地獄の苦しみを見て描きたいと殿様に望んだところ、殿様は自分の色欲に応えなかった絵師の娘を、車ごと燃すシーンを絵師に見せるのです。
『或旧友へ送る手記』の末尾です。
附記。僕はエムペドクレスの伝を読み、みずから神としたい欲望のいかに古いものかを感じた。僕の手記は意識している限り、みずから神としないものである。いや、みずから大凡下の一人としているものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合った二十年前を覚えているであろう。僕はあの時代にはみずから神にしたい一人だった。
芥川の作品は、晩年に近づいて来るにつれて自伝的要素を帯びてきます。
特に、最後の小説となった『歯車』は、『或阿呆の一生』にも繋がる、本音そのものだったと思います。
「自分に見えているもの」に関しては、それまでの自伝的な作品でも嘘は交えず書いていったのでしょうが、さらに「妻に見えていた自分」に出会う衝撃を、『歯車』に書いています。
神と自分との関係を推し量る文章に、「大凡下」という結論がついています。自らの命を絶とうとする者が、凡でいられると彼は思ったのか。それでは余りにも宗教的でない。
もしや彼は、神とエーテルと無意識と美とを、同一と考えたのではないか。死ぬ前の数年間の苦悩は、宇宙に舞起きた磁気嵐、ノイズと片づけたのではあるまいか。
だとすれば彼には決定的に足りぬ物があって、自己を量れていない。「妻に見えていた自分」の醜さに、恐怖したか。
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