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通夜の客
夜気が冷たかった。窓をしめに立ちあがると、夜更けの星がいつもと違って少し青色をおびた冷たい光を放ちながら、満天にばらまかれていた。戦慄をまじえた不思議な感情で、私は遠く門倉のいる大陸へかかっている夜空を見詰めていた。白鳥座の星がくっきりと罪という字に読まれたのは、その夜の私の感傷の仕業であったろうか。
 
なんか夏の星にまつわる作品あったなあと思って繙きました。
白鳥座が「罪」という文字に見えたらもう自首すべきです。。。
これは犯罪の話してるんじゃないですけどね。
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青春
「作者の言葉」を紹介します。


 人の生涯のうち一番美しくあるべき青春の季節は、おのずから最も生きるに難かしい季節である。神があらゆる贈り物を一度に人に与えてみて、人を試み、それに圧し潰されぬものを捜そうとでもしているかのように、その季節は緑と花の洪水になって氾濫し、人を溺らせ道を埋めてしまう。生命を失うか、真実を失うかせずにそこを切り抜ける人間は少いであろう。
  
 人の青春が生に提出する問題は、生涯のどの時期のものよりも切迫しており、醜さと美しさが一枚の着物の裏表になっているような惑いにみちたものだ。モンテーニュが、人は年老いて怜悧に徳高くなるのではない、ただ情感の自然の衰えに従って自己を統御しやすくなるだけである、と言っているのは多分ある種の真実を含む言葉である。青春には負担が多すぎるのだ。しかもその統御しやすくなった老人の生き方を真似るようにとの言葉以外に、どのような教訓も青春は社会から与えられていない。それは療法の見つかるあてのない麻疹のようなもので、人みながとおらなければならぬ迷路と言ってもいいだろうか。
  
 もし青春の提出するさまざまな問題を、納得のゆくように解決しうる倫理が世にあったならば、人間のどのような問題もそれは、やすやすと解決しうるであろう。青春とは、とおりすぎれば済んでしまう麻疹ではない。心の美しく健全なひとほど、自己の青春の中に見出した問題から生涯のがれ得ないように思われる。真実な人間とは自己の青春を終えることの出来ない人間だと言ってもいいであろう。
 

実はこの小説では(と言っては、読む興味は薄らいでしまうでしょうが)、主人公には事件らしい事件も起きず、ちょっとした女性との関わりに中に、「作者の言葉」に書かれたような、負担の大きすぎる青春が描かれています。

主人公の周りの女性としては、まず彼が学ぶ教授の妹がいて、二十歳の彼よりも少し大人の世界を垣間見せる存在です。
そして下宿には、越してきた姉妹の、特に女学校の妹が、彼の部屋に去来します。

画家を目指す友人の身の上に起きる女性問題の方が面白いプロットです。主人公の胸中に去就するできごとは、日常がその外観に置いて変化なく通り過ぎる中で、全てはなかったも同然と処理する安逸で、過ごすことも可能です。
しかし湧き上がるととまらない青春の情念は、年上の女性に、「今笑ったでしょう」と掴みかかってみたり、次の約束を交わしたばかりのその足で、先回りして相手を待ち伏せてみたり。。。

昭和13年発表という時代の事情を考えれば、仕方ないことですが、未来の日本を背負うべき、学業の最高峰にいる青年達の会話には、男尊女卑の鋳型がはまってしまっています。その上で説くフェミニズムに、少し迷路を感じる方もいることでしょう。

『或阿呆の一生』~『或旧友へ送る手記』 下
  三十一    大地震
 
 それはどこか熟し切った杏の匀に近いものだった。彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匀を感じ、炎天に腐った死骸の匀も存外悪くないと思ったりした。が、死骸の重なり重なった池の前に立って見ると、「酸鼻」という言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。ことに彼を動かしたのは十二,三歳の子供の死骸だった。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭折す」___こういう言葉なども思い出した。彼の姉や異母弟はいずれも家を焼かれていた。しかし彼の姉の夫は偽証罪を犯したために執行猶予中の体だった。・・・
「誰も彼も死んでしまえば善い」
 彼は焼け跡に佇んだまま、しみじみこう思わずにはいられなかった。
 
芥川は関東大震災を予言していたと言うことです。母親の発狂から、芸術の極みにしか逃げ場のなくなった芥川という存在は、危うい天才を生み出します。
 
姉の夫は、火災保険を家の値段の倍掛けて自ら放火した嫌疑が掛けられていて、芥川は事後処理に疲れ精神を病みます。
 
          三十四      色彩

 
 三十歳の彼はいつの間にかある空き地を愛していた。そこにはただ苔が生えた上に煉瓦や瓦の欠片などが幾つも散らかっているだけだった。が、それは彼の目にはセザンヌの風景画と変わりはなかった。
 彼はふと七,八年前の彼の情熱を思い出した。同時にまた彼の七,八年前には色彩を知らなかったのを発見した。
 
芥川の多才な文芸活動は二十五歳から三十五歳までの十年に集約され、ここで言う七,八年前とは、まだ彼が悪魔と契約する前の、人の幸せの上の青春時代。。。
その後、彼は母の遺伝子から逃れるために芸術の極み(色彩)に到達していったのでは。
 
『秋山図』という美しい作品があります。芥川は、名画そのものになっていったのかも。
 
          三十六     倦怠

 
 彼はある大学生と芒原の中を歩いていた。
「君たちはまだ生活欲を盛んに持っているだろうね?」
「ええ、___だってあなたでも・・・」
「ところが僕は持っていないんだよ。制作欲だけは持っているけれども」
 それは彼の真情だった。彼は実際いつの間にか生活に興味を失っていた。
「制作欲もやっぱり生活欲でしょう」
 彼は何とも答えなかった。芒原はいつか赤い穂の上にはっきりと噴火山を露わし出した。彼はこの噴火山に何か羨望に近いものを感じた。しかしそれは彼自身にもなぜということはわからなかった。・・・
 
 
『地獄変』という作品を読むと、制作欲だけで書いている作品じゃないかと感じてしまいます。
絵師が地獄絵を描くにあたって、我が目で地獄の苦しみを見て描きたいと殿様に望んだところ、殿様は自分の色欲に応えなかった絵師の娘を、車ごと燃すシーンを絵師に見せるのです。



『或旧友へ送る手記』の末尾です。
 
 附記。僕はエムペドクレスの伝を読み、みずから神としたい欲望のいかに古いものかを感じた。僕の手記は意識している限り、みずから神としないものである。いや、みずから大凡下の一人としているものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合った二十年前を覚えているであろう。僕はあの時代にはみずから神にしたい一人だった。
 
 
芥川の作品は、晩年に近づいて来るにつれて自伝的要素を帯びてきます。
特に、最後の小説となった『歯車』は、『或阿呆の一生』にも繋がる、本音そのものだったと思います。
「自分に見えているもの」に関しては、それまでの自伝的な作品でも嘘は交えず書いていったのでしょうが、さらに「妻に見えていた自分」に出会う衝撃を、『歯車』に書いています。
 
神と自分との関係を推し量る文章に、「大凡下」という結論がついています。自らの命を絶とうとする者が、凡でいられると彼は思ったのか。それでは余りにも宗教的でない。
もしや彼は、神とエーテルと無意識と美とを、同一と考えたのではないか。死ぬ前の数年間の苦悩は、宇宙に舞起きた磁気嵐、ノイズと片づけたのではあるまいか。
だとすれば彼には決定的に足りぬ物があって、自己を量れていない。「妻に見えていた自分」の醜さに、恐怖したか。


『或阿呆の一生』~『或旧友へ送る手記』 上
芥川の死因が自殺だとわかったとき、高校生の私にはキャパシティが少なく、自殺した作家の名を冠した賞が世間に受け入れられていいものか、という反撥がありました。反撥を弓にして芥川を射るように読みました。読後、少しは感じました。死ではなく、彼の生を。
 
命を絶つ前に、芥川の机の上にあった原稿が、『或阿呆の一生』で、抽斗の中にしまわれていたのが、『或旧友へ送る手記』です。
 
 僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思っている。
 君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知っているだろう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずにもらいたいと思っている。
 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしている。しかし不思議にも後悔していない。ただ僕のごとき悪夫、悪子、悪親を持ったものたちをいかにも気の毒に感じている。ではさようなら。僕はこの原稿の中では少なくとも意識的には自己弁護をしなかったつもりだ。
 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知っていると思うからだ。(都会人という僕の皮を剥ぎさえすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑ってくれ給え。

 
           昭和二年六月二十日
                           芥川龍之介
    久米正雄君
 
 
『或阿呆の一生』の冒頭です。芥川の文章の中で唯一推敲されてない文章かも知れません。最後の段が少し乱れています。
 
一の「時代」から五十一の「敗北」まで、想い出を語り、綴っていきます。「彼」と出て来る箇所は、すべて芥川自身の事です。
 
 
 一  時代

 
 それはある本屋の二階だった。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新しい本を探していた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、ショウ、トルストイ、・・・
 そのうちに日の暮は迫りだした。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでいるのは本というよりもむしろ世紀末それ自身だった。ニイチェ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、・・・
 彼は薄暗がりと戦いながら、彼らの名前を数えていった。が、本はおのずからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、ちょうど彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いている店員や客を見下した。彼らは妙に小さかった。のみならずいかにもみすぼらしかった。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない」
 彼はしばらく梯子の上からこういう彼らを見渡していた。・・・
 
彼(芥川)は、実にきれいな文章を書きます。しかし、この高見の姿勢は、誰かに裁きを求めているかのようです。 
 
芥川の生みの母は、精神的な病のため、ほとんど彼を育てていません。
母の実家の芥川家に引き取られた彼が10歳の時に実母はなくなります。
二は、その母の死を即物的に謳ったもの。
 
   八   火花

 
 彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨はかなり烈しかった。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匀を感じた。
 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼らの同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線はあいかわらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、---凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。
 
彼には肯定すべき物が少なかったようです。最も肯定する物は、この紫の火花だと言います。事故の中で偶発的に見出す鮮烈な美を。
 
芥川の文章の美しさは、あるべき場所にあるべき言葉があるところですね。
ちなみに、芥川の「文芸的な、余りに文芸的な」が、このブログのタイトルのヒントになっています。
 
 十一    夜明け

 
 夜は次第に明けていった。彼はいつかある町の角に広い市場を見渡していた。市場に群った人々や車はいずれも薔薇色に染まりだした。
 彼は一本の巻煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んで行った。するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠えかかった。が、彼は驚かなかった。のみならずその犬さえ愛していた。
 市場のまん中には篠懸が一本、四方へ枝をひろげていた。彼はその根もとに立ち、枝越しに高い空を見上げた。空にはちょうど彼の真上に星が一つ輝いていた。
 それは彼の二十五の年、___先生に会った三月目だった。

 
先生とは夏目漱石のことです。『鼻』を発表後、この年に門人となりました。
このころの芥川、輝いていたような気がします。
 
         十三    先生の死
 
 彼は雨上りの風の中にある新しい停車場のプラットフォオムを歩いていた。空はまだ薄暗かった。プラットフォルムの向こうには鉄道工夫が三,四人、一斉に鶴嘴を上下させながら、何か高い声にうたっていた。
 雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎった。彼は巻煙草に火もつけずに歓びに近い苦しみを感じていた。「センセイキトク」の電報を外套のポケットへ押し込んだまま。・・・
 そこへ向うの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙を靡かせながら、うねるようにこちらへ近づきはじめた。
 
 
漱石が死にました。後年に書かれた『枯野抄』は松尾芭蕉の末期の水を取る弟子達の話ですが、漱石の死を重ねて書いたのだと思います。
 
それにしてもこの文章にも詩情があって、そのまま誰かが曲をつけて歌いそうな美しさです。
 
十四は結婚の話。
 
         十六   枕

 
 彼は薔薇の葉の匀のする懐疑主義を枕にしながら、アナトオル・フランスの本を読んでいた。が、いつかその枕の中にも半身半馬神のいることには気づかなかった。
 
懐疑主義という枕にケンタウルスがいるとは。。。彼には結婚もさして幸福ではありませんでした。
 
         十七    蝶
 
 藻の匀の満ちた風の中に蝶が一羽ひらめいていた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶の翅の触れるのを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺って行った翅の粉だけは数年後にもまだきらめいていた。
 
学生時代に芥川の懐疑主義に触れたときは、彼の女道楽に対する反省が原因かと勝手に思っていました。
 
二十一の狂人の娘は、発狂した母親のことです。彼の中で、母の遺伝子に対する恐怖は、ずしんと重かったに違いありません。
 
二十四の出産は、芥川也寸志氏の誕生のことです。
『河童』という小説の中で、父親が産道に向かって尋ねる話が出て来ます。おまえは生まれてきたいのかどうなのかと、胎児に確かめる河童の話です。
あれは実は芥川の、生まれてくる子供への問いかけだったのでしょう。
 
         二十六     古代

 
 彩色の剥げた仏たちや天人や馬や蓮の華はほとんど彼を圧倒した。彼はそれらを見上げたまま、あらゆることを忘れていた。狂人の娘の手を脱した彼自身の幸運さえ。・・・
 
芥川の強迫観念は、発狂した母親からの遺伝の恐怖にあるのでは。。。
もっとも美しい頂に登らない限り、時限装置のスイッチが入ってしまう。。。
美を追究し、そのあげく古典に自己発祥の意味を探し、原稿用紙に刻印してまだ燃えつきない生命の炎。