有島武郎の博愛主義には、宗教的な影響からか、祈りにも似た深い人間愛を感じます。
一人の人間と出会い、その才能を尊敬し、運命が芸術の道を隔てた不幸を、愛情を込めて謳い上げたのが本書です。
ただ、この作品を読むと、おそらく誰もがぶつかる文学的な問題点があります。
小説家の「私」は、「君」との再会に感動します。「君」は、漁師として家を守らなければならない身の上で、もう絵描きとしての可能性に夢見ることはないなどと、一晩中真剣に語ります。
ここから書き進められることは、「私」が描く「君」の姿。
嵐の海で船が転覆したことから、芸術の道を諦めるために自殺しそうになったことまで、「君はそのとき、こうだったよね」と言う風に書き進める私。
一晩の会話の内容からしか材料がないのに、主人公の語りによって物語は進行します。
主人公を2人称で書き進める手法はあります。
手紙形式や日記形式で、「あなたはあの日、こう言いました」って綴っていくのです。
この作品はそのせいでずいぶん読みにくくなりました。
有島は20代の後半、欧米を歴訪し、ホイットマンの詩にかなり惹かれ、帰国後ホイットマンの紹介のために文章をずいぶん残し、講演会も開いています。
ホイットマンが農夫に話しかけ、個に光を与えるような詩を綴っていったことが、有島の思想に影響を与えたかも知れません。
有島もまたこの作品で、徹底して一人の個に希望の灯がともるまで、祈り続けるように書いています。
有島が文学的な狙いで2人称を使って書くほど策士とは思えないので、とすれば、ホイットマンの心を包み込んだ、詩のような小説を書こうとしたのではないかと、私は思うのです。
個が大きく目覚めていった大正の時代ですから、有島を含めた白樺派が受け入れられる所以にも思いを馳せて読み直してみました。。。
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